愚者はのらくら月へゆく

久間健裕の日々のあれこれ

映画『イレイザーヘッド』を見た。

ついに、リンチに手を出す。

イレイザーヘッド』1976年

クリーチャーの見過ぎでもはや可愛いまである
あらすじ

もじゃもじゃ頭のヘンリーは恋人のメアリーの家族と夕食の最中に、メアリーが赤ん坊を産んだので結婚しろと迫られる。しかしその赤ん坊は手足がなく魚のような顔をした謎の生物であり、メアリーの子かどうかも定かでない。ヘンリーとメアリーは新婚生活を始めるが、赤ん坊の奇妙な鳴き声にメアリーが耐えきれずに出ていってしまう。そこからヘンリーは様々な悪夢的現象に苛まれていく。

感想

ひえー、やっぱり難解。台詞は殆どなく、シュールで不気味、熱でうなされた日に見る悪夢を映像化したような作品。ただモチーフだけで見れば、なんとなく読み取れるものがありそう。

恋人のメアリーや不気味な家族は理解の及ばない他人への恐怖、泣き叫ぶ奇形の子供は不安のメタファー。妖艶な美女は一度肌を重ねるものの別の禿げた中年男に靡いてしまう。そこには性行為、あるいは男性としての自信のなさが描かれているように見える。ヘンリーがメアリーとの肉体関係を頑なに濁し続けるのは、例えばEDなどの病気で性行為が出来ないからで、そのトラウマの具現化があのグロテスクな精子型の胎児なのかもしれない。

そして最後、ヘンリーは霧の中で顔の膨れた女と抱き合い安堵の表情を浮かべる。彼女は精子のような胎児を踏み潰しており、子供を作らない、肉体関係を持たないプラトニックな愛の象徴という事なのではないか。

冒頭とラストに出てくる肌の爛れた男の存在や、中盤の取れたヘンリーの首で消しゴム鉛筆を量産するシーンは今ひとつ分からないけど、観念的なものを描く際にシュルレアリスムの手法はぴったりな手法だし、分からないけど分かる、分かりたくなるという域にまで達しているからこそ、デヴィッド・リンチががカルトの帝王になりえた所以なのかもしれない。