愚者はのらくら月へゆく

久間健裕の日々のあれこれ

映画『哀れなるものたち』を見た。

話題作はしっかり見ておこうと思った。

『哀れなるものたち』2024年

誰も彼もみな哀れ

フライヤーや宣伝の雰囲気から、好きなタイプのアート系映画だろうなという予測を立てていた。その読みはほぼ間違ってはいなかったのだけど、予想していた内容とはかなりかけ離れていた。壮大なエンターテイメント奇天烈ワールド。これは人間という「哀れなるものたち」の物語なのだと思う。

この映画の主人公であるエマ・ストーン演じるベラは絶望の淵から自死を選ぶが、そこを天才外科医であるゴドウィン=ゴッドの手によってこの世に引き戻された。それはゴッドの悍ましいエゴイズムの副産物ではあったが、それによって彼女はある呪いから解き放たれた。お腹にいる胎児の脳をそのまま成人女性の肉体に移植するという手術により彼女は生まれ変わったのだ。

ゴドウィンのモチーフは明らかにフランケンシュタイン博士だし、となるとベラは女性版フランケンシュタインの怪物だろう。しかし彼女は自ら博士の元を飛び出し、あくなき好奇心だけを胸に冒険に出る。初めはヨタヨタとしか歩けない身体も徐々に自立し、一人の女性として成熟していく。何かに縛られることを嫌い、世の中の常識や倫理とされているものを疑い、不条理に涙し、誰に何を言われようと、どんな状況であろうとも自分らしく生きようとする。

人間にとっての好奇心は何よりの原動力だ。子供が元気なのは、何も知らない=この世界に対する好奇心を持ち続けていられるからだ。それが大人になるにつれて、世界を知るにつれて、好奇心は「知識」「常識」と引き換えに失われていく。好奇心を失ったものは老いさらばえて、哀れな存在となっていく。

ベラは常に知りたがる。この世の全てに疑問を持ち、探究していく。性的探究にも余念がない。立ち止まらない、常に進み続けるという意思表示とも捉えられる。世間知らずな彼女は一般的に見たら”哀れ”な女性に見えるかもしれないが、映画を見ていると実際に哀れなのは彼女でなく、彼女を取り巻く周りの人々のことであるような気がしてならない。作中に登場する男性は誰もが独占欲や庇護欲をベラに向ける。そんなマチズモ的な思想にも彼女は真っ向から向き合い、私は私であるという主張を突きつける。

また、単純に映画として映像の魅力が半端じゃなかった。ベラの精神を表すかのように世界の色彩が鮮やかになったりくすんだりする演出が見事で、特にモノクロからカラーになる瞬間は感動すら覚えた。主題や世界観に若干の取っ付きづらさはあるものの、中盤の舞踏会のシーンや後半の売春宿のシーンはコメディになっていて面白かった。粗雑に扱うのではなく、かといって重苦しくするわけでもない。この辺のバランス感覚も非常に良かった。