愚者はのらくら月へゆく

久間健裕の日々のあれこれ

バースデイ。

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本日また一歩、明確に死へと近づいた。

子供の頃には待ち遠しかった誕生日。
だけど、歳をとるにつれてその価値は薄まっていって、今では日常生活の中で「あ、そういや明日誕生日じゃん。」って気付くレベル。バイトも普通に入れちゃう。

僕にとっての誕生日は、その程度の認識だ。

思えば、子供の頃にあったその待ち遠しさは、友達から祝って貰えるからだとか、誕生日プレゼントが貰えるからだとか、ケーキが食べられるからといった、誕生日という特別な日に付随しているイベントの方に向けられていたのだろう

大人になり、友達と呼べる人も厳選され、欲しいものも自分で好きなように買えるようになり、歳をとる事を祝い事として見れなくなった現在において、誕生日なんてものは冒頭でも述べたとおり、明確な死へのカウントダウンに過ぎない。

暦というものが生まれてから、人類は時間という概念を輪っかにした。60分を一時間、24時間を一日、365日を一年とする物差しを定め、人々はその輪っかの中でも特別な日を記念日として設定したのだ。誕生日もその一つ。

ただ、よくよく考えてみて欲しい。

先ほど輪っかにした時間というのも、そもそもは一本の長いロープを螺旋状にしているだけなのだ。動物に誕生日は存在しない。彼らには暦という概念がないので、生まれてから死ぬまで、真っ直ぐな道をひたすらに歩いている。それは人間だって同じの筈。我々は一年を繰り返しのように感じているが、実際は全く別の日を過ごしている。

 

誕生日なんてものは、はなから存在しないのだ。

 

まあ、何が言いたいかといえば、Facebookなどでたまに通知される、友達と呼べるかも微妙だけど一応学生時代に友達登録だけはしていたもう10年以上会っていない同級生の誕生日通知は鬱陶しい、という話。

 

そんな話をしつつも、せっかく人間に生まれたからには、その特権である誕生日を祝うという行為をしてもいいだろうと思い、久々に誕生日ケーキを買ってみた。大人になってからの生クリームは甘ったるくて吐き気がした。死を予感させる味。

イチゴの酸味が愛おしかった。